kangosiyametaの日記

看護師である自分の母が癌になり。その日々を思い出として記す。

最期

朝になりだいぶレベルが低下した母。

あんなに夜中動いてたのに、嫌味を言ったのに、声を出しながらも寝ているようだった。

それでも右足だけはベッドから下ろし、トイレの方に向かっていた。何度ベッドに戻してもまた足が出てきてしまう。

訪問看護師が到着、陰部洗浄をし、身の回りを整え終了。しばらくして往診医が到着。昨日の状態を説明。今晩も不穏が続くようならドルミカムの使用を私に任せてくれた。普段なら処方しない麻薬、それも薄めるとはいえ注射での投与。どんだけ信頼してくれているのだろうかとありがたくなる。尿意についても相談。フォーレーを挿入することを提案、病院まで取りに行き、訪問看護師さんに挿入してもらうこととなる。夕方に一度排尿あり、フォーレーを挿入後も300ml程流出あり…まだこんばんは大丈夫か…

しかし血圧は60台に低下…いよいよかと覚悟する。

あーあー声はだし、視点も合わない母。

夜には身体の動きもほとんどなくなってしまった。

いつも通り生活をし、夜11時頃、旦那の手を借りダイアップを挿入した。しばらく体をさすったりして過ごす。旦那とふざけたことを話しているとわずかだけど口角が上がった。まだ聞こえてるのか、良かった。

お腹の腫瘍は素人の旦那が触れてもわかるほど大きくなっていた。

しばらく母の横に添い寝をし、話しかけ、さすりながら過ごす。右手がふと動き私の頬を触れた。もう力がちゃんと入らずさすろうとしたのか不明だがそのまま手が力尽きてしまった。

しばらくして閉眼、あーあー声は出るが寝たのだろうか。

横に布団をひき自分も休む。

突然、3:30頃目が覚めた。あーあー声が聞こえないもしや!飛び起き母に触れる。まだ温かい、けど息をしていない。橈骨、正中、耳のところ、脈が触れない。急いでベルで旦那を起こす。旦那が降りてきたのを確認し、すぐに弟夫婦を起こしに行く。戻るともう息は聞かれなかった。

最期の瞬間に起こしてくれた母。

お陰でみんなで囲むことができた。聴診器を当てると心音が一回だけ聴取できた。

その30分後に連絡したパートナーさんが到着。

往診医が到着したのは5:00頃、5:20の確認となった。

不穏との戦い

往診医には状態が悪化しやすいため起き上がりが禁止と言われた。トイレはオムツにとのこと。昼間買っておいたオムツがもう役に立つとは。

訪問看護師さんとオムツを装着させ、嫁は薬を受け取りに病院に走ってくれた。

しばらくして呼び出したパートナーが到着。事情を説明する。二人っきりになりたかろうと離れ弟と話し戻るとまさかの母がベッドに端座位になっていた。あんなに動かすなと言ったのに怒りを覚える。

食事をとるなどし、その後母はずっと寝たままだった。表情はやや険しい。苦しかろう。かわいそうに。

しばらくして旦那が到着。事情を説明し、そのまま寝る準備へと入る。

苦しそうに息切れが聞こえたため寝る前に医師に指示を頂いた通りにダイアップの座薬を使用、23時頃。次使用可は四時間後。

30分程し、静かになり母が寝ているのを確認し入眠する。

母の声で自分が覚醒したのは2時過ぎ。起き上がろうとしている。意識は朦朧。苦しいと答えつつもトイレに行きたいと話す。動くのが危険なためオムツをつけていることを説明、そんなん生き地獄やと嫌味を言われながらも対応。

寝る気配がなくどうしようか悩む。まだ次のダイアップしようまでは早い気がする。オプソを少量ずつスポンジブラシで口に含ませる。少し落ち着くが入眠するほどではない。添い寝をし、さすりながら過ごす。少し落ち着くがふとした瞬間にトイレに行こうと起き上がろうとしている。もうあと30分で4時間だからもういいだろと思い2回目のダイアップを使用。

引き続き添い寝をし、さすりながら過ごす。

どのくらい経ったのだろうか、いつのまにか自分も寝ており、気がついたら朝5時頃だった。おそらくもう薬の作用は切れているだろう。寝ているのか、レベルが低下したのか起き上がろうとする動作はない。しかし腕を寝た状態で宙に伸ばし何かしようとしている。きっとトイレに行こうとしているのだろう。最後の瞬間まで自分でトイレは行きたいと言ってた母。こんな状態になっても迷惑をかけないようししている、なんて強い人なんだと思っていると家族が起きてきた。

 

 

低空飛行

たくさんの友達が来てくれた夜、母のパートナーさんより私が友達と話し部屋を離れているときに母がおかしな行動をとった事を報告受ける。それは母が姪っ子が誰なのか認識できていないようで、パートナーさんが名前を伝えてもわからないと返答したとのことだった。しかしその後の会話におかしな点はなく、思い過ごしかもと思いつつ、母の寝ている隣の居間で布団を敷きいつも通り寝ていた。朝方ふと起き、かすかな声で私を呼んでいるのが聞こえた。母さん?と思いベッドを覗くと誰もいない。焦りトイレに向かうと、顔面蒼白の母がトイレに座っている。ズボンを汚したようだが着替える力はなく、トイレから立ち上がる力もなく、かすかな声で私を呼んでいたのだった。

急いで着替えを準備し、母の脚の汚れを拭き取り、着替え、トイレから居間のソファに抱き抱え連れて行く。気づかなくてごめんと謝り、どのぐらい時間座ってたのか聴くと1時間かなとぽつり答え寝てしまった。よほど疲れたのであろう。膝掛けをかけ、息切れをしていたので酸素のチューブをひっぱり装置をし、トイレの掃除をし、もうトイレまでの歩行は困難と判断しポータブルトイレをいつでも使えるように準備する。終わりふと時計を見ると6時過ぎであった。ついにトイレも行けなくなったのかと悲しくなってきた。

母がどんどん弱っていく。あとどれだけ時間が残されているのだろうか。

 

そのまま午前中はソファで寝ていた。訪問看護師が来て、点滴もそこで実施する。

寝ているうちにと銀行の用事を済ませに行く。

外出中に母は起き、ベッドに戻りたいと言ったようで家にいた嫁が対応したと嫁よりメールが届く。

急いで用事を終わらせ家に戻る。

母はベッドで寝ていた。嫁が言うに、嫁を私と勘違いしたようでソファから移乗する際私にするようしがみついてきたとのこと。しかしすぐ気がついたようで驚いた顔をしていたと聞く。

昨日のパートナーに言われた行動と言い、アンモニアの値が上がってきたのだろうか、不安になる。

しばらくするとトイレと起き上がる。ベッドの横に準備していたポータブルトイレに介助して動き、用をすませる。特に不思議な言動はない。トイレを済ませるとまたベッドに横になり寝てしまった。昨日に比べウトウトしているが、レベルは悪いわけではないか…

そうこう過ごしていると夕方再度トイレに行きたいこ声をかけられる。

端座位にし、ポータブルトイレに移乗させようとするとポカーンと座っている。立つからここ掴んでと促すがわからないと一言のみ、そのまま座っている。絶対変だ。レベルが落ちてきた。もう会話はできないのか、さらにリミットが近づいた…そう思うと一気に涙が溢れてきた。こんなに早く悪化するなんて、悲しいのと、悔しい思いでいっぱいだった。

そんなしてると何も知らない嫁がたまたま入ってきた。私の号泣に驚いた表情。今の出来事を伝え、涙ぐんでくれた。今から自分は訪問看護師に連絡をするから、弟に連絡して欲しいことを伝えた。

訪問看護師に連絡をし、すぐこちらに向かうとのこと。旦那にも電話をし、こっちに向かうよう伝える。

しばらくして訪問看護師が到着する、ほぼ同時に往診医が到着した。たまたま他の患者のところに行った帰り道に寄ってくれたとのこと。まさかこんな事態とは先生も理解していなく、朝からの情報を全て伝えた。そうこうしていると弟が到着する。先生に玄関に呼び出され、今の現状を説明される。もう最期の瞬間が近づいていること。最期は家族で囲んでできるだけ過ごして欲しいことを話される。オプソの内服はおそらく無理のためダイアップの座薬を処方するため今から取りに来て欲しいことが伝えられる。とても優しい先生、母のとこに行きやり残したことがないか聞いてくれた…すると母は娘が…と何かと思ったら、娘がこの土日たくさん人を通すから大変だった、疲れたと悪態つかれた。しかし、先生、苦笑いしながらでもそのおかげでみんなに挨拶できたねと、その言葉に笑顔が少し見れた。

ついに最期の瞬間になってしまう…

 

友達いっぱい

その翌日からちらほら母の友達が来てくれた。

同級生、音楽療法の仲間、親戚、などなど。

午前は訪問看護の方が点滴を繋ぎ、終わる昼から来てくれた。

疲れた顔をしている母だが友達が来ると笑顔を見せ、話していた。数分の面会が終わり、駐車場までお見送りに行くと来てくださった方にいつからこうなのか、今どんな状況かなど質問攻めになる。そりゃそうだ、1月の入院前日まで仕事をしていたのだから。自分がわかる事をわかりやすく医療用語抜きで、伝えるよう努力する。あまりの進行の早さにみんな唖然とする。そしてもうあまり時間が残されていないことをも理解してくれ、涙してくれる。いかにみんなに母は愛されていたかを感じ、意識があるうちに最後の言葉を交わす時間をもて良かったと安堵する。

家に戻ると疲れた表情ながらみんな良い人だねと話しすぐうとうと寝いる母。無理をさせているのは承知の上であった。だけどいきなりお葬式の死顔にだけはしたくなかった…そんなのお互い辛すぎる。

低空にて安定。

ステロイドを開始し、すこぶる回復というわけにはいかないが低いなりに落ち着いた印象であった。

たまたま母がまだ入院している頃母に入院したからかんぽ生命になんか出したらお金もらえるはず、なんの書類がいるか聞いてきてと言われ病院から一番近い、今まで入ったことのない郵便局に入った。そこで手続きの担当となった女の方、証券を見ながら病名、手術をしたか、退院のめどは?など簡単な質問をされ答えていく…次の瞬間ものすごく驚いた表情で私の顔を凝視した。証券に書いてある母の名前、私の顔を見て…もしかして娘さん?お母さんって音楽療法士?と言われそうだと伝える。どうやら母の仕事仲間だったようだ。病名など伝えたばかりのため色々繋がったようでそんなに悪いの?と言われ、私もなぜか隠さず余命数ヶ月と言われてることを伝えていた。そのときから郵便局の用事がある都度その彼女のお世話になっていた。

入院中の診断書もできあがり提出に行くと彼女が対応してくれた。どのような状態か言われ、かなり低空飛行飛行であることをお伝えする。音楽療法士の仲間がみんな心配していること、会いたがっていることを教えてくれた。

一瞬悩んだ。母は疲れるから誰にも会いたくない、訪問看護も疲れる。と口にしていた。だからって誰にも会わせず最後を迎えていいのだろうか。周りの方々にしたらいきなりお葬式なんて受け入れられるだろうか。けど今を逃してはもう時間がないのは事実だ。どうしよう。

タイミングが合わなかったり、母が寝ているときはお引き取りをしていただきたいこと。一人数分までにしてほしいことをお伝えする。そんなの当たり前だよと優しい笑顔で頷かれた。

後で知ったのだが彼女は郵便局の仕事の傍ら全力であちらこちらに連絡してくれたとのことであった。

家に帰り事後報告ではあるが、母は誰にも会いたくないとは言ってるものの、誰かに必要とされていることに喜びを感じてきた人だから。顔と一言程度なら母に会いたい人をどんどん会わせたい事を伝えた。意識がなくなるのは時間の問題だからこの良い状態のうちに行いたいことを伝える。家族も最初難色を示したが理解してくれた。

他の母の友達からの連絡にたいしてももうあまり時間が残されていないから、タイミングが合うなら来て欲しいことを伝えた。

うちの旦那到着!

点滴を開始するも大きな変化はないなかった。

こたつに座りお茶を飲んだり、ソファでうとうとしたり。相変わらず脈、呼吸ははやく、だるさもあった。だるさに対してオプソを使ってみるも大きな変わりはなかった。痛みではないからなのかな?と思いつつ、だるさに対して大してできることもなく、さすったり、マッサージをしてみる。

そんな中3/2 海外に仕事に行っている旦那が帰ってこれるとのこと。やっと愚痴を夜中に言えるというのは私にとってありがたい事だった。母の状態も安定しているため弟家族に母を頼み空港まで迎えに行く。帰りの車の中はひたすらお互いの報告会で話しはつきなかった。

連れて戻ると母はまだこたつに座っていた。待っていてくれたのだ。身体がだるいだろうに母としての強さを感じ、関心する。少し話し、母を布団に連れて行き、自分らも寝室にいく。

仕事づくめの旦那もよほど疲れていたよう、すぐに寝てしまった。

とりあえずこれで家族は全員そろった。一安心だった。

ご飯は食べないけどまぁ安泰

食欲がひたすらにない母。

嫁と私でそれぞれ二品ずつおかずを作るから本人が食べれるもの少しつずつ口にしてくれる。量にして各食事片手一杯ない。

本人も食べないとと思い頑張ってる姿はわかる…けど恐らく癌が圧迫し、食欲すらわかないのであろう。それでも朝はヨーグルトと果物を食べてくれる。なんなら大好きなコーヒーも一口飲みたいと言ってくれる。それだけで嬉しかった。

昼間はこたつで過ごしたり、ソファでうたた寝。このぐらいの低空飛行が緩やかにならいいなと思う。

しかし少しずつ状況は悪くなっていく。

来て4日目、身体のだるさが増してきた。ひたすらにだるいらしい。脈も呼吸も早い。だるさのせいで動作も緩慢になっている。だらくて辛いって言葉も聞かれるようになった。

下血もしているようであった。貧血からのだるさなのか他なのかわからないけど訪問看護師に相談してみる。すぐに医師に連絡が行き、採血、エコーが実施された。胸水、腹水はないとのこと。

翌日からオプソと、ステロイド、止血剤入りの点滴を一日数時間だけ投与することとなった。採血の結果思いのほか悪化していなく、なんでだるいのかよくわからなかった。しかし癌の末期ということには変わりなく、医師から家族にではなく、私にだけステロイドのおかげで少し上向きになる、けどそれは決して回復ではなく、良い意味での副作用。この機会に本人、最後のやりたいことをやらせてあげてと言われる。着々と最後に向かっているんだなと、娘として、看護師として気合いをいれた。